子どもの頃は、いたいのいたいのとんでけ~、で本当に飛んでいったものです。
単なる思い込みでしょ?というご意見もあると思いますが、あながちこれは気持ちの問題だけではなさそうです。プラシーボ効果とも少し意味合いが違うようにも思います。
そこで今回はいたいのいたいのとんでけ~、が与える影響について考えてみます。
いたいのいたいのとんでけ~、のおさらい
例えば走っている最中に子どもが転んだとします。膝を打ったりして「痛い、痛い」と泣いています。
そこで親は(先生でもいいですが)「いたいのいたいのとんでけ~」といいながら、痛いところを優しく押さえるか、撫でるようにして、その手をパッと話して痛みという形あるものが、手から離れて飛んでいくような仕草をします。
子どもは、飛んでいった先に目をやってそれを見送ったあと、やがて落ち着きを取り戻します。
なぜ飛んでいったから落ち着くのか
さて、ここで痛がっていた子どもの気持ちが切り替わることについて考えてみます。
元来子どもは(幼児期などは特に)痛みに対して鈍感に出来ています。また気持ちの切り替えは早く、その切り替えのきっかけは他の興味のあるものだったりします。それが証拠に何かものが当たって痛い〜と泣いていても、好きなテレビ番組が始まるとケロッとしていたりします。これは痛みに対して鈍感なことに加え、気持ちの切り替えということが痛みを感じにくくなるということに大きく関係しているといえます。
「とんでけ〜」で手を向こうの方にして、痛みという塊が遠くへ飛んでいくイメージをもたせることで、「あっ、今飛んで行ったんだな」と子どもは思います。それと同時に「どこに行ったんだろう?」とか、「飛んでいった痛みは他の誰かのところに行くんだろうか?」とか色々な想像が働くことでしょう。
それらはすでに「気持ちの切り替え」ができている証拠でもありますね。
これが飛んでけ~の効能でしょう。
痛いところを撫でながら、は意味があるのか?
では、飛んでけ〜の前の「いたいのいたいの・・・」のところについて考えてみます。
痛がっているところを優しく押さえながらあるいは撫でながら、いたいのいたいの〜というわけですが、実はこの動作がとても大きなポイントだと思われます。
押さえるにしても、撫でるにしても、痛がっているところに手を当てることがポイントです。痛いところに手を当てる。これがまさに「手当て」の基本です。
大人になってもその感覚は大事で、例えばお腹が痛い時自分で無意識にお腹を押さえます。膝を打って「痛っ!」という時無意識に手が膝に行くことでしょう。つまり人間は「痛いところを押さえる(触る)」ということで安心感を得たり痛みの軽減を図るのですね。
それに加えて自分の手ではなく、他人の手で押さえてもらうほうがより安楽な感覚があると思います。例えば首筋やふくらはぎのコリに対しても自分で押さえるよりも、人に押さえてもらったほうが心地よく感じるはずです。ましてや安心できる相手(子どもにとっては親や先生、大人では家族や専門家)に押さえてもらうと数倍の心地よさがあるでしょう。
まず手を当てて、次に注意をそらすという順序
このようにいたいのいたいのとんでけ~は何気なくしている行為でありながらものすごく奥が深い行為ということがわかります。しかもこの順序が大事です。まず手を当てて、次に子どもの意識をそらす、という順です。これを逆、つまり「とんでけ〜、いたいのいたいの」という倒置法ではうまく痛みから注意をそらすことができないかもしれませんね。
まず、安心感を与えて、次に気持ちの切り替えに進める。
この順序に沿った方法は他の日常の場面でも応用ができるはずです。
不安になっている相手にまずは「心配ないよ」と声をかけてから、対処方法を一緒に探す、弱音を吐いている人に対して「とにかく負けるな、頑張れ!」といきなり励ますのではなく、まずは一緒に弱音を吐いてから、「だけどここで踏ん張ろう!」と声をかける、などですね。
そう考えると、いたいのいたいのとんでけ~、はとてつもないパワーを秘めているように思いませんか?